2013年01月02日

二十四孝

深光寺の欄間の由来が気になっていました。
元旦会の直会時、住職がお持ちになったのが「二十四孝略説」です。
昨年10月の研修時の資料だそうです。
「きよたかさん、欄間のことが書いてます」
ページをめくって写真を比べてみると、なるほど二十四孝の欄間に間違いありません。

向かって右側にある欄間です。
右から庾黔婁、郭巨、王祥、王褒です。
深光寺二十四孝右s

左側の欄間です。
右から大舜、楊香、孟宗です。
深光寺二十四孝左s


物語の要約は次の通りです。(出展:Wikipedia)

『二十四孝』(にじゅうしこう)は、中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物である。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目とした。日本にも伝来し、仏閣等の建築物に人物図などが描かれている。また、御伽草子や寺子屋の教材にも採られている。

庾黔婁(ゆけんろう、ゆきんろう)は南斉の人で、孱(せん)陵県の役人になっていたが、着任して10日も経たないうちに、胸騒ぎがしてならなくなった。父の病気かと思い、役人を辞めて家に帰ると、案の定大病を患っていた。庾黔婁が医師に病状を尋ねると、病人の便を舐めて、甘く苦ければ良かろうと言う。庾黔婁は簡単なことだと言って舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星(北極星)に身代わりになることを祈り続けた。

郭巨(かくきょ)の家は貧しかったが、母と妻を養っていた。妻に子供が産まれ、3歳になった。郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていた。郭巨が妻に言うには「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」と。妻は悲嘆に暮れたが、夫の命には従う他なく、3歳の子を連れて埋めに行く。郭巨が涙を流しながら地面を少し掘ると、黄金の釜が出て、その釜に文字が書いてあった。「孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない」と。郭巨と妻は黄金の釜を頂き喜び、子供と一緒に家に帰って、さらに母に孝行を尽くした。


王祥(おうしょう)は母を亡くした。父は後妻をもらい、王祥は継母からひどい扱いを受けたが恨みに思わず、継母にも大変孝行をした。実母が健在の折、冬の極寒の際に魚が食べたいと言い、王祥は河に行った。しかし、河は氷に覆われ魚はどこにも見えなかった。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。


王裒(おうほう)の父・王義(おうぎ)が時の皇帝の怒りに触れて、罪も無いのに亡くなった。王裒はこれを恨み、皇帝の居る方角には決して向かないで座った。王裒は父の墓の前で礼拝し、傍らにあった柏の木にすがって泣き続けたために、柏の木は枯れてしまうほどであった。母は雷が怖い人であったが、その死後も雷が鳴ると、王裒は母の墓に急ぎ行った。死後の孝行もこれほどであるから、生前の孝行は計り知れないであろう。


舜(しゅん)は大変孝行な人であった。父の名前は瞽叟と言い頑固者で、母はひねくれ者、弟は奢った能無しであったが、舜はひたすら孝行を続けた。舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けた。その時の皇帝を堯と言った。堯は舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ皇帝の座を舜に譲った。これも孝行の心が起こしたことである。


楊香(ようこう)には一人の父がいた。ある時父と山に行った際に虎が躍り出て、今にも2人を食べようとした。楊香は虎が去るように願ったが叶わないと知ると、父が食べられないように「天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助けて下さいませ」と懸命に願ったところ、それまで猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて逃げてしまい、父子共に命が助かった。


孟宗(もうそう)は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍があるはずもない。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。すると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。これも深い孝行の思いが天に通じたのであろう。

Posted by kitanifarm at 10:52│Comments(0)TrackBack(0) まちづくり委員会 

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